紙丑堂の業務日誌

ぼんやりしがち

『シック・オブ・マイセルフ』

これだけ長かったので別記事にした。
私の感想はすべてネタバレです。

宣伝コピーが「SNSで加速する自己承認欲求に狂って自傷に走る」という内容だったのだが、実際は「自己承認欲求に狂っているように見える人の根底にある、無数についた引っ掻き傷」を解きほぐすように描いた作品だった。

主人公の寂しさの根底に恋人からの侮りがあることが繰り返し描かれることからも、それは明白だ。
他人の血を大量に被るという(本人的には)かなりショッキングな出来事に、まったく関心を示さない恋人。主人公は明らかに傷ついて動揺しているのに、恋人どころか誰ひとり抱きしめてもくれない。
恋人は新進気鋭の野心的な芸術家で、トリッキーなアートを制作しているが、その作品は彼女の協力(泥棒の片棒という反社会的行為)なくして成立しない。それなのに、名声を得るのは恋人だけ。作品に名前をクレジットしてくれるどころか、祝いの席で恋人として紹介されることすらない。
そして恐らく、恋人からのそんな酷い扱いにずっとすがってしまう主人公の根底には、母を捨てて出ていった父への複雑な恨みがあることも何度か匂わせられている。
でも、その話を聞いてくれる人はいないのだ。まったくいない。なぜなら、主人公もそれなりに(どこにでもいる)平凡なクソ野郎だから。普通程度には嫌な奴なのだ。私のように。

善人でも悪人でもなく、べつに賢くも愚かでもない主人公は、他人への無関心や、心にも無い無責任な使い捨ての称賛の連鎖に足を取られて、やがて自分が何を求めているのかすらわからなくなる。どうなったら幸せなのかがわからない。そもそも、私の名前を覚えてる人がいない世界で、私って誰なんだろう……?と
その泥濘にハマったときの足の重さや閉塞感を、映画は「ねー、お前も味わおうねー」と言いながら、丁寧に丁寧に再体験させてくる。
最初に倒れて担ぎ込まれた病院で医者に告げられる真実(幻聴)こそが彼女が自分自身に対して下しているジャッジであることは明らかだけど、彼女自身は映画の最後までそれに気付けない。その代わり「自分の真実(と思い込んでいるもの)」に蓋をしてしまうことで、ソレは曖昧でひたすらに恐ろしいモノとして、実際以上に巨大な何かとなって彼女を追い込むことになる。
彼女の周りのだれかひとりでも、彼女のことを見ていれば気づけたかもしれないのに、誰もみていない。見ていても遠巻きにする。普通に嫌な奴だから。でも、それは誰しもが持っている普通程度の嫌さでしかないとも言えるのに。

欺瞞が大義を背負って大手を振って歩く世の中で、たいしたことない人間の滑稽な弱さが、誰にも省みられずに取り返しのつかないほどの傷に育っていく世界を、この映画は丁寧にえぐっていく。
ちなみにセラピーの会の露悪的なあの一幕は、わたしも経験したので爆笑した。そうなんだよ、傷ついた人間の集まりったってマウントみたいなの取ってくるやついるし、リーダーも偽善の塊ってこともよくあるんだ。良い人ではあるんだろうが。
しかし、それでいい。と映画は言っている。私にはそう聞こえた。
生きるしかない苦痛のなかで、嘘でもまず「自分は生きたかったんだ」と気づくことはとても大事だ。嘘にまみれた関わり合いのなかで、それでも見え隠れする「自分にとって揺るがない意志」を見つけ、いつか核として握りしめる強さを身に着けていかないと、こんな世の中生きていられないのだから。
欺瞞に満ち溢れながらも、どこか光の感じられるラストシーンと、その希望に浸ろうとすると唐突にぶった切られる音楽。その性格の悪さはとても誠実だった。

この映画は、承認欲求モンスターを嗤う映画と見せかけて、嗤うお前らを刺す映画だ。

というわけで、わたしこれすき。

で、ここから余談なんだけど、
キャッチコピーの不適切さって、映画の中でマスコミが行った行為(そうするしかないかもしれないが、それにしたって無慈悲では?という温度感として描かれている)とまったく同じなのだが…。
なんであんな惹句にしたのか理解できない。人が呼べるから…という理由なら、更にまさにこの主人公に起きたことを再生産するわけで、マジで何考えてんの???とびっくりした。
その上、Filmarksとか見ると、そのキャッチコピーから受けた予断をそのまま作品に持ち込んでいる読み解き方があまりに多くてクラクラくる。
やべえ世の中になってきたな。